わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
コリント人への第二の手紙 5:7

見えるものはもろく、形あるものはいつか壊れてしまう。空の空、全て空しいものだと、ソロモンはかたっている。
僕の友達で、彼氏の行動一つに、ものすごく左右される人がいた。
彼女の話を聞いていると、彼女は自分の人生ではなく、彼の人生を歩んでいるように感じた。ひどい扱いを受けても、別れたくないから、耐えていた。
保身もあったかもしれない。別れたくないし、傷つきたくない。妥協もあっただろう。皆こんなものなのでは?
ネットサーフィンで、似たような境遇の人を見つけては、慰められていた。
僕からしたら、危なっかしくてしょうがない。終わりのない蟻地獄なのに、いつまでそこに希望を置いているのか、甚だ疑問だった。
だって、彼女の意思とは関係なく、彼女は幸せになったり、不幸になったりを、他人によって決められているようだから。それは、もう、土の船で海に出るようなものだと思った。
結局、彼女はうまくいかなかった。
彼女は、ついに疲れはてたようだった。そして、やけになり、ささいなことでイライラするようになり、よく喧嘩するようになって、嫌気をさされて、一方的に別れを告げられた。
どうすれば良かったのか。終わった後ならいくらでも言えるが、少なくとも、寄りかかるものが人である場合は、それは一番もろいのだろう。
彼氏を信じることはいいことだろう。特別な人がいることは決して悪いことではない。
でも、そこに自分の価値を置いてはいけない。彼がいてもいなくても、その人の価値は変わらない。でも、多くの場合はそうは思われていない。彼女は、彼の喜ぶことをすることが、自分の価値だと勘違いをしていた。
結果として、彼女は自分の言いたいことも言えなくなっていた。それはもう、ただ利用されてるだけ。セフレと変わらない存在になっていた。でも、どうしようもなかった。彼女には、他により頼むものがなかったからだ。
まさに、恋は盲目だった。
だったら、まだ、自分だけを信じる、という方がいいかもしれない。いざとなったら頼れるのは自分だけという、そんな社会で生きているわけだから。
わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
パウロはそのように語っている。
信仰によって歩む人は、自分を創った神に価値を置いている。だから、全くぶれない。
例えば、彼から、一人の人間として、尊厳を傷つけられたとしよう。前述の彼女は、耐えた。
でも、信仰によって生きる人は、黙ってはいけない。毅然と相手を批判するべきだし、自分はお前のオモチャじゃないと、主張するべきだ。
自分の価値は神様が決めるもので、既に神様は、自分のことを愛していると言っているからだ。
信仰を持つことは素晴らしいこと
信仰によって歩む時、僕たちは、ものすごく力づけられる。
人生の先に希望を持つことができるし、その希望は、決して失望に終わることはない。
だから、その人は打ちのめされることがない。
自分さえも信じられなくなったときは、信仰によって歩んでみるといい。ものすごく、肩の力が抜けることだろう。