聖書に学ぶ~トレーダーとして~

聖書の言葉をつづります。クリスチャンっぽい視点からトレードを見つめなおしたりしています。海外FXは特にメンタル管理をしなければ勝てません。精神面の強さが非常に大切です。自分を見失ったときは、すぐに我に返ってもらいたいです。

平安を与えてくださる神さま(ヨハネ14-27)

わたしは、あなたがたに平安を残します。

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14章27節)

平安を与える神

僕たちはいつも心を騒がせている。誰かによって、または自分自身によってもそうだ。

僕も、経済的なことについては、トレードで稼げるようになってからは全く心配はなくなったけど、それはただ単に、世が与える平安にすぎない。

神様から与えられる平安は、もっとずっと深くて、心の芯まで染み渡るような平安だ。

そして、それは、永久に尽きることがない。

全てを神様にゆだね、心に神様を受け入れると、すっと心が楽になる。

もう、自分一人で生きる必要はないし、誰かのことを恨む必要もない。あなたを縛るすべてのものから解き放たれる。あなたが背負うすべての重荷がかるくなる。

誰かを恐れることもしなくていい。

ただ、自分でいればそれでいい。

勘違いしてほしくない。神様を信じることは、まるで今までの自分を否定したり、自分を自分として認めなくなるのでは、と考える人がいる。

それは全く違う。

神様を信じるということは、自分を自分のまま受け入れるようになるために欠かすことができない。

自分という存在を認める。

例えば、あなたは父と母のことを受け入れているだろうか。好きな人もいれば、二度と会いたくないという人もいるだろう。

同じ血が流れていることさえも許せない、そんな人もいるかもしれない。

でも、存在は認めざるを得ないはずだ。あなたの父と母は間違いなく存在する。だから、あなたがここに存在するのだから。

では、祖父と祖母の存在もそこにあるはずだし、その前も、その前も、あなたの存在の前の前には、星の数ほどの人生があった。

自分をそのまま受け入れられずに、誰かの評価だったり、評判だったり、そんなくそくだらないことに心奪われて、この人生をそのことだけに賭けて終わっていく方が、それこそ、くそくだらない人生だとは思わないだろうか。

神様を信じ、受け入れたら、絶対にそんなことにはならない。

なぜなら、あなたをここに、この地上に誕生させたのは神様だからだ。あなたの人生の前の前の、ずっと前からそこにいて、今、あなたをようやく、この地上に誕生させたのである。あなたの人生を何よりも、あなたよりも、友達よりも、両親よりも、大切なものとして考えているのは、他ならぬ神様なのだ。

そんな神様が、くそくだらないことに人生を終えることを許して下さるはずがない。そんなことを望んでもいないのだ。

だから、神様を信じるということは、自分の人生を自分のものとして歩むことの近道になる。神様がそばにいてくれるということを知る。その平安たるや、他に例をみない。

明日も、明後日も、神様の守りがありますように。

わたしは、あなたがたに平安を残します。

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14章27節)

信仰によって歩む、コリントⅡ

わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
コリント人への第二の手紙 5:7

見えるものはもろく、形あるものはいつか壊れてしまう。空の空、全て空しいものだと、ソロモンはかたっている。

僕の友達で、彼氏の行動一つに、ものすごく左右される人がいた。

彼女の話を聞いていると、彼女は自分の人生ではなく、彼の人生を歩んでいるように感じた。ひどい扱いを受けても、別れたくないから、耐えていた。

保身もあったかもしれない。別れたくないし、傷つきたくない。妥協もあっただろう。皆こんなものなのでは?

ネットサーフィンで、似たような境遇の人を見つけては、慰められていた。

僕からしたら、危なっかしくてしょうがない。終わりのない蟻地獄なのに、いつまでそこに希望を置いているのか、甚だ疑問だった。

だって、彼女の意思とは関係なく、彼女は幸せになったり、不幸になったりを、他人によって決められているようだから。それは、もう、土の船で海に出るようなものだと思った。

結局、彼女はうまくいかなかった。

彼女は、ついに疲れはてたようだった。そして、やけになり、ささいなことでイライラするようになり、よく喧嘩するようになって、嫌気をさされて、一方的に別れを告げられた。

どうすれば良かったのか。終わった後ならいくらでも言えるが、少なくとも、寄りかかるものが人である場合は、それは一番もろいのだろう。

彼氏を信じることはいいことだろう。特別な人がいることは決して悪いことではない。

でも、そこに自分の価値を置いてはいけない。彼がいてもいなくても、その人の価値は変わらない。でも、多くの場合はそうは思われていない。彼女は、彼の喜ぶことをすることが、自分の価値だと勘違いをしていた。

結果として、彼女は自分の言いたいことも言えなくなっていた。それはもう、ただ利用されてるだけ。セフレと変わらない存在になっていた。でも、どうしようもなかった。彼女には、他により頼むものがなかったからだ。

まさに、恋は盲目だった。

だったら、まだ、自分だけを信じる、という方がいいかもしれない。いざとなったら頼れるのは自分だけという、そんな社会で生きているわけだから。

わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。

パウロはそのように語っている。

信仰によって歩む人は、自分を創った神に価値を置いている。だから、全くぶれない。

例えば、彼から、一人の人間として、尊厳を傷つけられたとしよう。前述の彼女は、耐えた。

でも、信仰によって生きる人は、黙ってはいけない。毅然と相手を批判するべきだし、自分はお前のオモチャじゃないと、主張するべきだ。

自分の価値は神様が決めるもので、既に神様は、自分のことを愛していると言っているからだ。

信仰を持つことは素晴らしいこと

信仰によって歩む時、僕たちは、ものすごく力づけられる。

人生の先に希望を持つことができるし、その希望は、決して失望に終わることはない。

だから、その人は打ちのめされることがない。

自分さえも信じられなくなったときは、信仰によって歩んでみるといい。ものすごく、肩の力が抜けることだろう。

善を知りながら「ヤコブの手紙4章17節」

「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。」

何が善か

ヨハネの手紙の4章には、このように書かれている。これは、単なる道徳の授業で教えているような話ではありません。

いじめはよくないとか、ボランティアを積極的にしなきゃとか、そういうことを言っているのではありません。

善とは、キリストです。キリストは罪なき者として生きました。そして、罪なき者として死んでいきました。

キリストの光に照らされる時、私たちの体は汚物のように真っ黒です。

まるで、真っ白い画用紙の黒い点がものすごく目立つように、私たちの黒さは、キリストの白さの中で際立ちます。

でも、キリストの善を知っています。罪がどういうものかを知れば、キリストの善がどういうものかもわかります。そして、ヨハネは、キリストの善を知りながら、それを行わなければ、それは私たちの罪だというのです。

これは、クリスチャンに向けた言葉です。

私たちは、この言葉によって、自分が罪人であると、告白することができます。告白するしかなくなるのです。キリストの善を知りながら、私たちはそれを行えません。罪人というと、法社会では法を犯した犯罪者のようですが、ここで言っているのは、神の前でどうかということです。

私たちは、神の前では全員が、罪人なのです。

そしてキリストは、罪人を救うために来たのです。

サマリアの女 ヨハネ福音書4章

4:6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。 4:7ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。 4:8弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。 4:9そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。―― 4:10イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 4:11彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。 4:12あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」 4:13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 4:14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 4:15女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 4:16イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 4:17女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。 4:18あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」 ~~4:25女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」 4:26イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

サマリヤの女は見捨てられた女

サマリヤの女に出てくる女性は、誰よりも愛を求めていましたが、誰からも愛されてはいなかったようです。

通常は、井戸の水は朝にくむものですが、この時は6時とあります。今の時間でいうと、ちょうど正午くらいとなります。彼女は人目を憚って、暑い時間にわざわざ、一人で水をくみに来ていたのです。それは、彼女が皆に対してやましいところがあったということです。陰で何を言われているか、彼女は本当は社交的で知的な女性だったのかもしれません。でも、今は誰にも会わないように、こそこそと生活をしていたのでした。

サマリアの女性は、現代にもたくさんいるようです。見た目は元気でも心が乾いている人。そんな人は何をしても満たされない感覚がつきまとうものです。たとえ、キャバクラで豪遊したり、高級マッサージを受けてみたり、ホストクラブで推しに優しくされたとしても。また、世間をななめから眺めては愚痴や悪口を言いまくっても、その心の渇きはなかなか埋めることはできません。

そんなことで一時的に渇きをなくしても、すぐに乾いてしまうのです。サマリアの女性は、そのような女性でした。

そんな彼女が出会ったのは、ちょうどそこで休んでいたイエスキリストでした。

人生最大の出会い

これが、彼女にとって人生最大の出会いとなりました。イエス様は彼女に声をかけます。「わたしに水を飲ませてください。」と。彼女は驚いてこのように返します。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」

その当時サマリヤ人は罪のあるものとして、ユダヤ人から疎まれていました。当然、サマリヤ人に話しかけるユダヤ人などいなかったのです。ましてや、この女性はサマリヤ人の中でも人目を気にして生きていた女性です。

水をくみに来たとき、イエス様がいることに気がついていたとしたら、相当気まずい気持ちなっていたでしょうし、引き返していたかもしれません。

そんな自分に、まさか相手から話しかけてくるとは。めちゃくちゃ焦っている彼女が目に浮かびます。そんな彼女に、イエス様は、もしあなたが私を誰だか知っていたとしたら、あなたの方から、私に水を求めるでしょう。そして、私はあなたに生ける水を与えたことでしょう、といった意味のことを言います。彼女は意味が分からずに、ただ、イエス様が水を与える方だという言葉を聞いて、何もくむ物を持っていないのに、どうやって井戸の水をくむのですか、と質問します。しかし、イエス様が与えようとしていた生ける水は、井戸の水ではなかったのです。イエス様は、女性が乾いていることをご存知でした。のどが渇いているのではありません。心の渇きを知っていたのです。愛を渇望しながら、誰からも愛されず、彼女の心に水をかけてくれる人はいませんでした。彼女は本当に、乾ききっていたのです。

イエス様が与える水

イエス様は、女性にこのように言います。「この(井戸の)水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

物質的には私たちは飲んだらまた渇きます。だから飲み続けなければなりません。乾きすぎてしまうと、死んでしまいます。しかし、イエス様を一度心に受け入れると、心に水を与えてくれます。そして、イエスキリストが与える水を飲む者は、決して渇くことがないと言っています。それだけではありません。その水がどんどん増し加わり、やがてその人の中に泉ができ、そこからどんどん水がわき出ると言っているのです。女性はその水をわたしに下さい、と告白します。

そこでイエスは、女性に、あなたの夫をつれてきなさい、といいます。まさにそれこそが、彼女が人目をはばかる理由だったのです。イエス様もそのことをよくご存知でした。女性は困った末に告白します。私には夫がいないと。そして、イエス様は女性の現状について「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」という言葉を送るのです。

信仰には、告白が必要

自分の隠したいこと、嫌な部分を告白することが、自分のこころの扉をあけることになるのだと思います。そうすることで、ようやく、そこに、水が入ってくるのです。心が乾いている人は、自分で水をいれないように、心を閉ざしているからです。だから、私たちには祈りが必要です。誰にも言いたくない弱さも、神様になら言えるでしょう。私たちは祈りによって、自分のことを告白します。

サマリヤの女に対して、イエス様は(半ば強引にこじ開けたような気もしますが)心の扉を開けたのです。もちろん、女性は飛び上がるほど驚いたことでしょう。そして、何もかもご存知なのに、あえて私に話かけ、そして、決して渇くことのない水を与えようと言われていることに、驚きとともに、喜び、羞恥、困惑、感激、恐怖と様々な感情が混在したことでしょう。

その後、女性は、イエスが言い伝えで言われている、キリストであることが分かります。そして、この女性を通して、この地の多くのサマリヤ人がイエスキリストを信じるようになるのです。この後、そのように信じた人々が女性に言います。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと知っているのです。」と。

彼らもまた、女性を通じてイエスキリストを知り、そしてイエスキリストによって、水を与えられたのでした。

 

 

 

 

恐れるな、わたしはあなたとともにいる

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
イザヤ書41:10

僕たちは、一人では生きていけないが、一人になりたい時がある。

誰とも話したくない、誰とも会いたくない。そういう時も、年に何回かはある。ほとんど毎日そうっていう人もいると思う。

人間関係に疲れてしまって、信じられるのは自分だけ。一人が一番ラクだなって、ほっとする。

でも、おそれることはない。

あなたを守ると言ってる神様が、聖書の中にはいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

と、まるで少年漫画のめちゃくちゃかっこいい主人公の横顔から出てきそうなセリフを、実際にかけている。

僕たち一人一人にだ。

神様の存在を信じると、僕たちはものすごく強くなれる。だって、神様が後ろにいて、僕たちを守ってくれるといっているのだから、怖いものなどありはしない。

僕たちは、ただ信じればいい。

もし、人間関係に疲れて、一人になりたいと思ったら、

もし、何か大きなプロジェクトを抱えていて、落ち着かないとか、

または人生をかけた受験に挑むところだったり、就職活動の真っ最中だったりして、一人で不安を感じているなら、

この聖句を読んでみてほしい。

クリスチャンではなくても、少し心が落ち着くはずだ。

神様があなたとともにいることを祈っている。

ローマ3章10節

次のように書いてある。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。全ての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。」

義人はいない

キリスト教の教えは罪を知ることからはじまります。なので、義人はいないという中に、自分も含まれていることを理解しなくてはいけません。

どのレベルかというと、神のレベルでです。これを律法といいます。

人はその昔、律法を守ることを義としました。しかし、それがいつの間にか、律法学者やパリサイ人の手によって、人々をさばく道具になっていきました。

まさに、自分の目の中に針が入っているにも関わらず、他人の目の中のごみをとろうとしている人間で溢れかえったのです。

マザーテレサもキング牧師も、ヘレンケラーもフランシスコザビエルも、義人はいないのです。

律法を行うことによっては、人は義と認められません。律法によっては、罪の自覚が生じるのみだと、聖書はいっています。

それならば、人はどのように義と認められるのでしょうか。

そこで、罪のないイエスキリストが登場します。

私たちはイエスキリストによるあがないによって義と認められるのです。

かなりディープな話を最初からしていますが、、

トレードで自分を見失いそうになったら

勝てるトレーダーになるためには、ある意味、過去の自分と決別しなければいけません。

欲を捨てなければいけないし、我を失ってはいけません。

我を失う心境というのは、どうしようもない自分を認められない時に起こります。それは自分に固執している証拠ですね。

見失いそうになってしまったら、チャートを閉じることをお勧めします。

そして、この聖書に学ぶのどの記事でもいいので、読んでみる。

このわけの分からない、聖書の言葉と、とりあえず自分を見失うなと呼びかける文字を読んで

今一度、自分を取り戻す。

勝てるトレーダーになるためには、いかに負けた時の傷を小さくするかにかかっているということを思い出す。

チャンスは明日くる。と心に思う。

希望に燃える。

そして、チャートを閉じる。

そのことができるようになったら、勝てるトレーダーまであと一息です。

※ 海外FXでゆとりある人生を!

第一コリント人8章2節

人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。

しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

知っているというな

私たちは、みんな知識をもっています。だから知っていることもたくさんあって当たり前なのです。普通の人は脳みその大半は使っていないということも私たちは「知って」います。

ちなみに、脳細胞は二十歳くらいからどんどん死んでいくらしいです。使われなかった脳細胞が死んでいく。それって怖いですよね。若いうちの、小さいころからの勉学がどんなに大事が身に沁みます。

確かに、僕たちはたくさんのことを知っていますし、ネットをちょっと開けば、それこそ、あまたの知識を知ることができる環境で生きています。

しかし、それでもなお、聖書は、「知っていると思うな」と警告します。

「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」

トレードでの高ぶり

トレードにおいて高ぶるというのは禁物です。こうなったらいいな、が、こうなるべき、とか、こうならなければおかしい、となってしまっては、トレードで勝ち越すことなどできません。

なぜなら、負けた時、おかしいしか出てこないからです。取り返そうとするとき、取り返せるはずだ、しか出てこないからです。

自分は知識がない、とても小さな人間だとへりくだることができれば、負けても、それはそれとして見ることができます。

そこで邪魔になるものが、知識と経験です。

知識は人を高ぶらせ、経験は人に誤解を与えます。トレードにおいては、この二つは邪魔なのです。

僕たちにできることは、過信も不信もせずに、ただ、決められたトレードルールをたんたんと行うことだけです。

人は何も知ることはできない。

聖書は、神を愛することを進めています。人は何も知ることはできないけど、神を愛すれば、神の方が私たちを知ってくださると言っています。

今週もお疲れ様でした。

いいトレードをしましょう。

ちなみに、本日、ポンド円のあげさげで60pips頂きました。ありがとうございました!!!

 

ルカ12章25節

あなたがたのうちの誰が、心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことができますか。

こんな小さいことさえできないで、なぜ他のことまで心配するのですか。

心配はつきない

トレーダーは心配性であることが大事です。ギャンブル的なトレードを捨てて、下がるかもしれない、上がるかもしれないと、常に逆の方向に進む可能性をどこかで考えて、それでも大丈夫というところで、ロットを考えます。

ただ、心配しすぎてエントリーできない人は、それはそれで間違った判断をしています。

入るべきところというものがきたら、積極的にいくべきですね。

心配しすぎても、間違った判断をしてしまうのです。

聖書では、明日のことを思い悩むなと教えています。

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列王記Ⅰ18章26節

そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを踊り回った。

何を頼るか

昔も今も、人の行いというのは大して変わりません。どうにかしたいと思った時は、都合のいい神様の名を呼び、答えられないとなると、努力が足りない、自分を痛めることが足りない、あれが足りない、これが足りないと、いろいろと試みる。神様は人間が弱くて、一人では生きられないようなものだと知っているのですから、人間の努力をもって、何かの行いをもって救うことはしません。そんなこと言ったら、誰も救われることはありません。バアルの神に祈り、祭壇の周りを踊り回った彼らは、非常に労苦をしましたが、ついに答えられることはありませんでした。

トレードにおいてもそうです。どんなに神頼みをしたからといって、むだむだむだむだです。

僕も昔はこぶしを握り締め、一瞬だけでも戻ってくれ!と悲痛な叫びをあげたことがあります。もうあんな思いはしたくありませんが。。

結局のところ、トレードの中に自分を救ってくれるものは何一つないと知るべきです。

自分の味方はいない。けど、多くの人がそっちにいくだろうチャートの動きがあります。その動きを自分なりに解釈して、すこしそこにのっかってみる。うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。そこに必要なのは神様どうにかしてください!という懇願ではなく、

すべて御心のままに

という心境です。

そういえば、昨日とポンド円で、しばらく上昇傾向が続くかもしれませんね。と書いて終わりましたけど、朝起きてその上昇がすでに起きてしまっていたのには驚きました。

ということで、今日はなかなかいい形ができずに、ノートレードです。

こういう日にガンガントレードして利益を積み重ねられる手法も中にはあります。僕はそうじゃないだけです。

同じようなチャートでも、手法によって、ロングで入る人と、ショートで入る人がいます。

それくらいあやふやな世界なのですから、神頼みがむだなのはわかりますね。

しかも、ロウソク足の上げ下げを祈っている神は、たぶん欲望が作り出したまぼろしでしょうから。。

ローマ書9章15~18節

神はモーセに、「わたしは、自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。(ローマ書9章15~18節)

拠り所

トレードは自分ではどうしようもできない力で動いています。私たちがどんなに予想しても、インジケーター使いこなしても、たんに先の動きを予想しているにすぎず、コントロールしている訳ではありません。
予想が外れても、自分のほかに誰も悲しんだり、怒ったりする人はいません。全ては「自己責任」の一言で片づけられてしまいます。
一つの拠り所としては、神のみです。
それはチャートが逆方向に進んだ時に、神のあわれみによって元に戻るということを言っているわけ
ではありません。エントリーする時に、きちんとルールどおりに損切の設定をする。そしてそれを外さない。
損切した後で、感情的にならずに、次のチャンスをたんたんと待てるように、自分の心を強めてもらう。

そういう自分にしてもらうということです。

かたくなな心

エジプトの王、パロは400年もの長い間、イスラエル人を奴隷にしてきました。モーセはいくどの災いを起こしましたが、神はそのたびにパロの心をかたくなにされました。

心がかたくなになる時、自分ではどうしようもできない時があるでしょう。自分の心に従っているようで、実は本心とは全く別の行動をしてしまう。

これは、かたくなになっているのです。そんなはずはない。こうなるべき。こうでなくてはならない。そのように、考えてしまっては、この世の生活は窮屈極まりないものになるでしょう。

ことトレードにおいては、そのような思考に陥りがちです。しかしながら、先ほど書いたように、チャートは自分の力でコントロールできるものではありません。かたくなな心も、自分の力でコントロールすることは難しいと知るべきです。

それでは、かたくなな心で、ありもしない幻想を抱いて、自分の力ではどうしようもないチャートと向きあう時、私たちの希望はどこにあるでしょうか。

そう、そんなものどこにでもないのです。待っているのは、相場からの退場という最悪の結果です。

希望をおく

そんなすさんだトレード生活では、身がもちません。なにより資金がもちません。トレード生活に希望を置くためには、自分の心を正常に戻すことが必要です。
チャートに希望をおいてはだめです。裏切られたときに、正常でいられなくなりますよ。
大丈夫です。

ルール通りに、一つ一つのトレードができるようになれば、必ず資金は増えていきます。
そこに希望をおくのです。
そのために、心がかたくなにならないように、祈りましょう。クリスチャンじゃない人は、なんでもいいです。
とにかく、弱い自分が強められるように。でもいいですし、いい心理状態でトレードができるように、でもいいです。一言自分に言い聞かせるように祈ることで、自分の正しい姿を見つめなおす事ができます。

今週もいいトレードをしましょう。